1.祖父母との生活

もくじ

1-1 鴨川に来たきっかけ

私たち家族が、鴨川に来たのは、私が小学校3年、弟が1年になる年でした。
鴨川に越してきて間もなくもう一人の弟が生まれ、私達は3人姉弟になりました。

これはずいぶん後になって知った事実だったのですが・・・

祖父母の夫婦関係が心配で、母が私たち家族を連れて鴨川の実家で暮らそうと決めたのだそうです。

鴨川は、母の生まれ育った実家で、両親(=私の祖父母)が住んでいて、祖父は一等米を作る米農家のかたわら、建設業の会社を営んでいました。

ちょうど私たちが鴨川に引っ越した時期には、会社は軌道に乗り、数十人の従業員も抱えていたそうです。
会社をやって、農繁期には農作業をするという生活を送っていました。

農業と建設業の家業に、両親も従事する形で、私達姉弟、両親、祖父母とともに鴨川の母の実家で暮らすことになりました。

1-2 家の中でも社長だった祖父

祖父は、典型的なワンマン社長で、そのワンマンぶりは家の中でも健在でした。


社長として、リーダーシップや確固たる信念は必要不可欠で、それがあったからこそ、会社をここまで育ててこれたのだと思います。

祖父の社長としての資質は私も心から尊敬しているし、祖父が一生懸命働いてくれたからこそ、今の我が家があると心から感謝しています。

ただ、それを家の中でやられるとどうなるか?

まず、「普通の」会話のキャッチボールができない。


自分に正直に、感情の赴くままに正論を相手にぶつけるので、言われた相手は一言も反論できない。ただただ気分だけが悪くなる。


私達家族でさえ、全て否定されるか、さえぎって自分の話をされる。
これ、孫の私も容赦なくやられていたのです。苦笑


少しでも自分と違う考えだと思うと、絶対に自分が正しいと言わんばかりに主張してくる。


祖父が話を振ってくれても、振られた方は、「尋問」にしか思えない。

祖父と関わりのある人たちはこういった気質を理解して、怖がって近づかないし、笑って冗談を言い合ったり、楽しもう♪といった雰囲気で付き合っている人を見たことがありません。


祖父にとっては取るに足りない話だったのか、聞く価値もない話だったのか・・・

誰よりもこの祖父の気質に辟易していたのは祖母でした。


穏やかで几帳面な性格の祖母にとってもまた、不安や不満を伝えたところでこんな調子では、はけ口がどこにもない状態だったのだと思います。


母が、こんな祖父と夫婦2人きりの老後を過ごしていた祖母の精神状態に不安を感じたのは頷けます。


さすがに暴力をふるうことはありませんでしたが、頻繁に祖母を怒鳴っていました。


食卓では、食事をしながら新聞を読んでいるか、NHKのニュースを見て自分の意見や考えを一生懸命演説していました。


「へえ~、そうなんだね~」なんて、弟たちは聞いているそぶりは見せて、それなりに会話をしていました。私も、ほぼ空返事な時が多かったけれど、今となればそれもいい思い出です。

家族揃って食卓を囲んでいるのに、祖父が話し始めると、和気あいあいとした雰囲気がプツンと途切れ、祖父の話が終わるとまた会話が再開するといったことが日常でした。


誰よりも早く食卓に来て、食事の準備ができるとすぐに食べ始め、自分の話したい話をして、食事を済ませて気が済むと、そそくさと自分のくつろぐ部屋へ行ってテレビを見始める。


いつも自分のペース。他の家族は皆、おなかがすいてつまみ食いなんかしていても、家族が揃うまで待っていたのですが、祖父は全くそれをしない、できない?人でした。


人に合わせるとか、協調性といったものが皆無。いつも自分のペースというか生活リズムを徹底して貫いている人でした。


私たち家族は、祖父のこういった気質を理解するようになると、特別何も思わず、日常の一部となっていたのです。

祖父が食卓の自分の席に座る時間帯を把握していた祖母は、その時間までに食卓に食事を並べられるように食事の支度をしていたし、


私や弟が食事の準備を手伝うようになると、

「おじいちゃん、座ってるから先によそっちゃって」

と、いつの間にか、家族がおじいちゃんのペースに合わせて動いていたほどです。

こんな祖父が唯一笑顔を見せていたのは、自分の兄弟たちです。


6人兄弟の2番目だった祖父は、年に数回、互いの家を行き来して、「お祭り」と称した食事会を開いていました。我が家も年に1度、彼らを招き入れる準備でてんやわんやになりました。


その当時、「お祭り」で出されるほぼ全ての食事は手作りで、実際に作っていたのは祖母と母です。私も小学校高学年頃から手伝うようになりましたが、祖父以外の家族にとっては、正直あまり楽しいイベントではなかったのです。

祖母や母は、この1日のために数日もかけて準備に追われ、見送って片付け終わるまで気が抜けません。

子どもたちにとっては、お酒を飲んで騒いでいる大人のところに挨拶に行く。気が重い。

父にとっては、義理の父とその兄弟をもてなすのだから、要は接待と同じです。


今こうして振り返って書いていていても、おじいちゃん、とことん自分を貫いていたね・・・

と、つくづく感じています。


仕事でも家の中でも、良くも悪くも周囲の人間を巻き込みながら、自分のペースを貫き通した祖父。


巻き込まれた人間の中には、怒りをあらわにしたり、密かに祖父に対して嫌悪感を持っていたり、そういった人たちがいたことも事実です。


一方で、祖父の行動をしっかりと見ていてくれた方々は、祖父のしてきたことを認め、敬意を払ってくださっているのです。

家の中での祖父の姿を見ていて、何度腹が立ったかわからないけど、

それでも私たち家族が誰一人として、祖父に対して逆らおうとしなかったのは、


怖くて逆らえなかったから?

言っても無駄だから?


確かにこれも少しはあります・・・

ですが、そんな表面的な理由ではなくて、もっと深いところにあるのです。


それは、祖父が、


行動で示す人ということを理解していたから。

人の気持ちを想像したり、相手の自尊心を傷つけない言い方であったり、伝え方を工夫すれば、もっともっと祖父自身の考えが上手く伝わったのかもしれないけど、

残念ながら、そういったことが壊滅的に苦手な人でした。


それを知ってか知らずか、黙々と働き、これと思うことはとことんやり続けて、自らの行動で示し責任を果たしてきた人です。

親として、自分の子どもたち(母と叔父)を大学に行かせるために、朝から晩まで肉体労働をしてお金を工面していたそうです。


自分の稼いだお金で、祖母が高価な買い物をしていても何一つ文句も言いませんでした。


私達の誕生日やクリスマス、お年玉、入学卒業などの節目にはいつもお祝いを包んでくれました。


私達3きょうだいが大学に行かせてもらうことができたのも、祖父が自分の給料を受け取らず父の給料を上乗せして支払っていたからだと祖父の死後に知りました。


地域の人たちが自分の土地をうまく活用して地代を得ることができるように、関係各所に何度も足を運び実際にそれが実現し今に至るという事実も知りました。


父の葬儀の日、何度もぶつかってきた義理の息子が自分よりも先に逝ってしまったことを悔やみ涙を流していました。



母は、祖父と一緒に仕事をするようになって、自分の父親であることが恥ずかしくなるほど、人間性を疑うようなひどい言動をしていたのを何度も目撃していたそうです。


それでも、母がそんな父親を見捨てることなく、実家で自分自身で最期を看取ることをしたのは、祖父が母や家族に対して行動態度で示してきた責任や誠意があったからに他なりません。


一緒に過ごしているうちに、家族への深い愛情があって、働き者で、親として人として社長として、しっかりと責任を果たしている人なのだと理解していったのです。

1-3 祖母の教え

祖母は、祖父と同じ昭和2年生まれ。兄を戦争で亡くし、自分の親を看取り、私たちが鴨川に来た頃には自分の肉親が誰もいないという状態でした。

お見合い結婚で、少し珍しいパターンだったのは、祖父が婿養子だったことです。

(祖母の話では)祖母が17代目で、この家を途絶えさせてはならないとのこと。

決して大袈裟な話ではなく、祖母にとって「この家を途絶えさせないこと」は、人生をかけた一大事なのです。

根っこにそういう価値観があって、あらゆることに几帳面で、世間体とか見た目といった表面的なことををいつも気にしていました。


「極度の」偏食で、好き嫌いが多く、家族の食事を作り、それとは別にいつも自分専用のおかずを用意してありました。


私たちが「美味しい」と思うものはほぼ食べません。
唯一食べたのはお寿司ですが、シャリの炊き加減や味が気に入らないと食べないこともありました。


米農家の祖父母はお米に対しての味はものすごくうるさくて、買ってきたものや外食で出てきた米類は、少しでも気に入らないと口にしないほどでした。


祖母が炊くご飯はいつもやわらかくて、私たちは本当は「かため」が食べたい。
いくらそれを訴えても、頑なにやわらかくお米を炊いていました。


味噌汁は具沢山でかなり味が薄い。


どれもこれも家族の健康を考えてのことで、ありがたいことではありましたが、食べ盛りの時期の私たちや、肉体労働して帰ってきた父には、味気ないものばかりでした。


それとなく伝えても、誰が言っても、やわらかいごはんと薄い味噌汁は徹底的に貫かれていました。

(料理を覚えてきたころから)私が夕食を作ったり、週末は母が作っていたので、その時は父や私たちの好みの味付けでおかずを作り、不満を解消していました。

祖母は、決して自分の感情を表に出す人ではありません。大声で笑ったり、泣いたり、怒ったりした姿を一度も見たことがありません。


孫の目から見ると、穏やかでやさしいおばあちゃんです。
子どもが好きで、私たちをとてもかわいがってくれましたし、私たちの子ども(ひ孫)も同様です。


一方、普段感情を表に出さない分、自分でこうだと思うことは徹底的に貫き通す頑固さはすざまじいものがありました。


ずっとこの土地で生まれ育って、一度もここを出たことがない人です。


時代錯誤な価値観も持っているし、ちょっとしたことがすぐに噂になって広まってしまう田舎の土地柄なのか、やたらと人目を気にして、物事の判断にしても、理解に苦しむものも多かったです。


自分の夫とは会話もままならず一方的に怒鳴られても黙って耐え、自分の作った料理が明らかに家族の口に合わなかったのだとわかっていても、それでも自分のやり方を変えることは決してしない人でした。

そういった祖母の一面に戸惑いながらも、何より私たち孫を心から愛してくれているという実感はちゃんとあったし、


母は、当時を振り返って私によく言います。

おばあちゃんが○○(幼かった弟)を見ていてくれて、家のこともやってくれてたから、お母さんは仕事に行けたし、あの生活ができたんだよ。不満以上に感謝の気持ちが大きくて頭が上がらなかった。今でもそう。



祖母は、私たちが学校に行っている間、祖父と両親が仕事に行っている間、一家の家事とまだ孫の育児をたったひとりで担っていました。


今の時代で言う、ワンオペ育児主婦を59歳という年齢でスタートして、老後の暮らしを私たち家族を支えることに費やしてくれたのです。


学校から帰ると、何かしらお手伝いを頼まれました。

祖母は、お手伝いを通じて、生きるために必要なこと・人生で大切なことを徹底的に教えてくれました。


まだ生まれて間もない弟の世話から始まり、洗濯物を取り込む、たたむ、部屋の掃除、土間の掃除、包丁の使い方、火の使い方など料理の基本全般、配膳、食器洗い・・・

お手伝いをしながら家事の基本を教えてもらい、小学校高学年になると、一通りの家事はこなせるようになりました。

この頃は、毎日ではなく、自分のできる時や気が向いた時にだけ、できることを手伝っていたので、料理も掃除も片づけも、今のように苦痛に感じたことはありませんでした。


むしろ料理は、気晴らしになったりすることさえありました。

好き嫌いは別として、一通りの家事を理解していて最低限のことはこなせるという状態で、一人暮らしをスタートできたのは、この時の経験があったからで、恐らくこの時にやってなければ、その後身に付けるタイミングがなかったかもしれません。


家に帰ってきて、何かしらお手伝いをしろと言われるのは、正直嫌になるときもありました。


でも実はそれ以上に煩わしかったことがあって・・・


それは、必ずと言っていいほど、祖母に言われた小言を聞くことでした。

「女の子は料理できないと恥かくよ」

「靴は揃えなさい。女の子ができてないと余計恥ずかしいよ」

「脱いだ服はその辺に置きっぱなしにしない。こういうことができない女はみっともない」

「あいさつしなさい。お母さんも躾ができてないって思われるよ」

「ちゃんとお礼を言いなさい。こういうことできない女の人は特に白い目で見られるよ」

「言い返す前にまずは素直に謝った方がいい」


学校から家に帰って祖母と過ごしている間は、何かしらこんなことを言われました。


明らかに自分に対して特に厳しくて、「女の子はこうあるべき」と言われているようで、ほぼしかめっ面で空返事をしていたのをよく覚えています。


かなり腹が立って強い口調で言い返したこともあるのですが、それでも祖母はずっと同じトーンで、顔色一つ変えず、同じことを伝えてきました。


弟たちも同じように注意はされていたけど、私だけが言われて弟たちがスルーされていることがよくありました。きょうだい揃っているときは決まって自分が代表して注意されていました。


自分の時だけやたらと厳しく、その上「女の子は絶対ダメ」みたいな言葉を付け加えられていたことが、とても不愉快で強く印象に残っていたのです。


女だけじゃないでしょ。なんで私だけ?!


言われるたびに悔しくて腹が立ったのですが、


成長するにつれ、祖母が私にしつこく厳しく伝えていた小言の理由がよくわかりました。


私たちが暮らしていたこの地域では、近所同士の距離も近く、同世代の人たちが集まって定期的に会合を開いたり、草刈りなど農地を守るための奉仕作業全般を定期的に行っていたり、何かと地域の人たちが顔を合わせて話をする機会が多いのです。


そういった場で、「嫁の悪口」などは格好のネタでした。
自分の家の嫁のこともあるし、この土地に嫁いできた嫁ということもある。


「気が利かない」だの「料理がおいしくない」だの「子どものしつけがろくにできていない」だの・・・・

祖母はよく知っていました。「嫁」の立場になったらこんな風に品定めされる現実を。



一挙手一投足本当によく見られているのだということを祖母自身が一番理解していたからこそ、何度も何度も私に伝えてくれていたのだと思います。


私がいつか「嫁」の立場になった時に辛い思いをしないために、祖母が教えられることを孫の私に教えてくれていたのです。


もちろん、これだけのことで、人ひとりの全てがわかるわけではありません。

でも、たったこれだけのことで、その人全ての印象を台無しにしてしまうことがあるのも事実。


祖母の教えは、地元を離れ、1人暮らしをしてから、社会人になってから先の人生においても、ずっと私を助けてくれました。


飲食店のバイト先で、包丁を難なく使いこなす姿を見て驚かれたり、

友人や彼氏のご両親に気に入られ、すぐに打ち解けることができたり

年配の上司に可愛がってもらい、やりがいのある仕事を任せてもらうことができたり、


どれも本当に些細なことですが、このことがきっかけで断然仕事がやりやすくなったり、日々のストレスが少なくなったことは間違いありません。


両親も自分自身も結婚しないだろうとさえ思った39歳という年齢になって、結婚することができて、今こうして子育てをすることができているのも、結局は祖母の教えのお陰だなと最近よく思います。


時代錯誤な価値観もあったけど、特に、夫となる人の親の世代の人たちが、嫁をどういう風に見ているのか、どういうことを考えているのかを祖母から早いうちに叩き込まれていたお陰で、親に反対されたり、結婚後に義家族と険悪になるとか、そういったこととは無縁です。



もしかしたら祖母の意図とは違うかもしれませんが、経験してみて結局こういうことだったと実感しているのは、人に「嫌われない」技術です。


仕事の場面においては、「一目置かれる」という表現の方がしっくりくるかもしれません。



決して好かれようとする必要はないけど、嫌われてしまうことで物事が進みづらくなったり、挙句の果てには生きづらさに直結したりします。生きづらさになってしまうのは死活問題です。



「好かれる」が目的になると、自分を消耗してまう。「嫌われない」程度でいい。


「最低限」これだけは気を付けていなさい。


これを早いうちに教えてもらえたお陰で今の自分があると思います。


もくじ