2-1 はじめの試練
長狭ブルーベリーヒルズの歴史というか歩みは、両親が植えたブルーベリーからスタートしていますが、それもこれも、前述した祖父母と両親との関係や暮らしていた環境といった様々な要因があってそこに至っています。
父は、ワンマン社長タイプの祖父とは真逆のタイプで、人を楽しませたり笑わせたりすることがとても好きな人でした。
母の幼少期、前述の祖父母の性格からもわかる通り、自分の親の夫婦関係は悪く、いつも家の中が暗かった。
だから、母も叔父も自分たちが底抜けに明るく振舞っていたのだそうです。
そして、自分が結婚する相手は、自分の父親とは違い、一緒にいて楽しくて優しい人が良かった。
母が父を結婚相手に選んだのは、こういった理由があったのだそうです。
父は、母のことがとても好きでした。子どもの立場にいた自分たちの目から見ると、私たちより母にしか興味がないのかなとさえ思えたほどです。
だからこそ、慣れない土地での不慣れな仕事、義両親との同居、婿養子という厳しい環境に身を置いてでも、母の人生の選択を尊重できたのだと思います。
祖父母と暮らす前の両親は、いつも楽しそうで、家の中も明るくてリラックスできる雰囲気だったように思います。子どもの立場である私たちも居心地がよくて、特に不満を感じたこともありませんでした。
ところが、鴨川に越してきて、祖父母と暮らすようになった途端、両親の態度がガラリと変わってしまったのです。言葉で言い表せないような緊張感とイライラがひしひしと伝わってくるのです。
子どもの立場で感じたのは、今まで怒られたことのないことでも厳しく注意されるようになって、何をしてもいちいち怒られているような気がしました。
今までの日常だった「親子の会話」さえしづらい雰囲気になっていました。
食卓を囲んでも、以前のように会話が弾むこともなく、笑顔も少ない。それもこれも無意識に祖父母に気を使っているからでした。
ちなみに、この張り詰めた雰囲気は、時の流れととともに気にならなくなっていきます。
というのは、この緊張感は一時的なもので、その原因はごく単純なものでした。
皆それぞれ、新しい環境の中で格闘していて、精神的に「余裕がない」状態だったのです。
両親は、仕事を覚えるため、周囲の人たちとの信頼関係を作るためあちらこちらに気を使っていました。
私たちも新しい学校生活に慣れるのに苦労していたし、その上、家の中はこんな雰囲気で両親もいつも不機嫌で、気が休まる場所がありません。
皆、新しい環境に慣れるため、自分のことで精いっぱいだったのです。
3世代同居の一番最初の試練は、まさにこれでした。
新しい環境に慣れること。これが最初の試練でした。
当初は、これがとてつもなく大きな壁に思えて、なんでこんなところに来てしまったんだろうと思っていたほどです。
ところが、私たちも両親も少しずつ鴨川の生活に慣れていきます。
すると、自然と気持ちの余裕が出てきて、気付けば親子の会話が戻り、祖父母とのかかわり方も自分なりに見出していきます。
私も弟たちも成長して大人たちの事情を理解できるようになっていったし、
幸い、両親や祖父母の家族を大切する気持ちや自分達への愛情を感じ取ることができたので、不満があっても、腹が立ってもまたいつもの日常に戻ることができたのだと思います。
2-2 父と祖父
鴨川に来て一番大変な思いをしていたのは父だったのだと、随分後になって知りました。。
婿養子となって義両親と同居することを自ら選んだとはいえ、父は様々な困難を乗り越えなければなりませんでした。
義理の父が会社の上司で社長で、未経験の仕事。土木の現場作業員として過酷な肉体労働からのスタート。
カレンダー通りの休みなどなく、悪天候の日と年末年始以外は仕事。
入社してきた未経験の新人が、社長の義息子という理由だけで、ベテラン社員を差し置いて会社の後継者の立場にいることから、妬みひがみの対象になりやすい。
自分で応募して転職してきた会社よりも、周囲の人たちの自分への視線はとても厳しく、人並みのことができたくらいでは簡単に認めてもらえません。
その上、まともな会話や話し合いができない人が上司となれば、その苦痛は計り知れません。
母が、祖父の性格から、自分の夫と父親を2人きりにするのが心配で、間に入って夫のフォローをするために事務員として自らも同じ職場に身を置くことにしたほどです。
家に帰っても怖い上司がいるし、仏頂面の義両親とともに食卓を囲まなければならない。
本当に気が休まらなかったと思います。
こういった事情を知ったのはずいぶん後のことです。
鴨川の生活に慣れ、母や父と親子の会話が再開し、両親から話を聞くようになってからです。
この当時まだ子どもだった私には、こんなに過酷な環境に身を置いている父の事情を全く理解できず、全く違う光景に映っていました。
当時、家の中の父は、祖父が祖母にしているように、母に命令口調で話していました。
祖父のように大きな声を出して怒ったりなどはしないけど、私たちから見ると当時の父はなんとなく近づきにくく、怖い印象でした。
後に理解できたのは、家に帰ってきて家族に気を配ったり何かをする気力も体力も全くないほど、新しい環境に慣れることで精いっぱいだったということです。
祖父もまた、経営者としての責任を背負っていたし、孤独な立場で周囲から理解を得られないストレスも日々ある中で、それを解消できるような祖父なりの方法を持ち合わせていませんでした。
立場や理由は全く違いますが、父も祖父も、それぞれに大きな不満やストレスがあって、そのイライラを全部家庭の中に持ち込んでいた状態だったのです。
そして、この義親子は、互いに対してそれぞれの立場での思いや言い分があって、決して一歩も譲らず、ずっと折り合いが悪い状態が続きました。
基本的に父と祖父の会話は、仕事の業務連絡です。朝はその日の業務の確認、夜は1日の進捗報告。家の中でも会社の上司と部下のようなやり取りをしていました。
2人の折り合いの悪さは、まだ子どもの立場であった私たちの目から見ても一目瞭然、祖父の性格からもこの展開は容易に想像することができました。
あんな気質の祖父と一緒に生活して、その上同じ職場の部下になったら、父でなくても、ほぼすべての人が嫌になるだろうなと、身内でも思っていたほどだったので、この状況には全く驚きません。
ただ、この2人の不仲問題に関して、具体的にどんなトラブルがあったのかは、今になっても知らないことの方が多いほど、本人たちが私たちにに決して話してくることはなかったし、母も、2人が合わないということ以外は多くを私たちに語ることはありませんでした。
子どもを巻き込んだ喧嘩は決してしていなかったということです。
家に帰ってくると、祖父や母は召使い状態でした。
食卓に座ればそこから一歩も動かず、自分の目の前にご飯とみそ汁、おかずが並んでくるのをただ待っている。
「箸」「小皿」「醤油取って」
父は、母や私たちに、自分のものを用意させて、自分は全く動きません。
まだ、社会の厳しさがわからない子どもの目線では、「家の中で威張っている人」にしか映りません。
この当時の父は、冗談を言ったり、笑い話をしたり、そういったことをするのもはばかれるほど、ピリピリしていて、話しかけづらい雰囲気が漂っていました。
ただ、これも一時的なもので、「父が怖い」という状態は、鴨川の生活に慣れてきたころには、いつの間にかなくなりました。
家の中のことを全くしないのは、結局死ぬまで貫きましたが・・・
父に「醤油取って」と言われたら、「そんなことも自分でできないの?」と私も冗談交じりに突っ込めるようになりましたし、それくらいは自分で持ってくるようになりました。
とはいえ、私も弟も、こんな風に冗談ぽく言い返すことはあっても、なんだかんだ言って結局は、父や祖父が食卓に座っているだけで食事が完結するように、サポートしていたのです。
おかずを盛り付けている間に、小皿や橋を食卓に持っていく。
ごはんとみそ汁、おじいちゃんの分を先によそって、おじいちゃん先に食べてもらう。
お父さんのも、食卓に来たらすぐによそえるようにお茶碗用意しておく。
配膳係のルーティンです。
決して、祖父や父を社長扱いして崇めていたわけではありません。
上下関係など全くなく、あくまで対等な立場で家族として関わっていました。
ただ、とても過酷な状況だったことを考慮しても、父や祖父が、母や祖母を召使いのように扱っている状況だけは未だに納得できていません。
この影響で、息子たちには、最低限自分の身の回りのことや、戦力になれるくらいの家事力は身につけさせるというのが、人格形成とともに、私の育児の目的のひとつとなっているほどです。
にもかかわらず・・・
これほど、見ていて気分が悪い、違和感だらけの状況であったのに、
それでも夫婦を続けていたことや、私や弟も自然と父や祖父を立てるような態度を取るようになっていった理由はいったい何だったのか?
それは、何より父や祖父が一生懸命働いて私たちの生活を支えてくれている事実があったから。
そして、当事者の母が、今の生活があるのは、この二人のおかげなんだと、何度も強調して私たちに伝え続けていたからです。
実際に召使い扱いされている本人は、こちらが思うほど重く受け止めておらず、むしろ尊敬、感謝しているんだなと、私たちも納得せざるを得ませんでした。
実際、孫として、娘として関わっていた祖父や父は、普通のおじいちゃんであり、お父さんでした。
家族を思う気持ちは人一倍あって、その思いで一生懸命働いてくれているんだなと2人の姿を見て感じ取ることができました。
父と祖父の、唯一の共通点は、家族を思っていたこと。典型的な「昭和の男」であったこと。
家事育児を妻に丸投げ状態なところは全く同じですが、実は普段の妻に対する態度が全く違いました。
父は基本的には母とよく会話をしていて夫婦で協力して試練を乗り越えていました。
両親は、とにかくコミュニケーションをよくとる夫婦でした。
だから夫婦円満なのは子どもの目から見ても明らかです。
父はお酒も弱いし、異性関係やギャンブル、金銭トラブルなど大きな問題もありません。
それでも、いつもお金の心配が絶えなかったと母は言います。
父の実家も裕福な家庭ではなかったし、父自身も決して高給取りではなかったため、
経済的に苦労することも多かったと言います。
根はやさしくて、真面目、家族のために一生懸命働くことが取り柄でした。
母が惹かれたのほこういった父の人柄だったのだそうです。
一方、祖父は、あんな性格ですから、夫婦の会話もままなりません。
祖母も祖父に対しては諦めの境地に達していて、祖父母は夫婦の会話はほとんどありません。
祖母も頑固な一面があるので、一方的に祖父に命令口調で何か言われても、黙って聞いているようで、決して全て言いなりにはなりません。
祖父母の夫婦関係は、最悪でした。
ただ、この夫婦の唯一の救いは、祖父がしっかりと稼いできてくれていたことです。
この夫婦が続いていたのは、祖母にとっては「生きるため」でしかなかったのだと思います。
彼らの生きた時代背景から、お互い別れた後の生活の方がより過酷であることは明らかでした。
祖父は彼なりに祖母を愛していたようですが、祖母には全くそれが伝わっていません。
祖母は、祖父が稼いできたお金を、高価な着物や洋服、化粧品など、自分の恰好品の買い物に使っていましたが、祖父は祖母の浪費に対しては一切口を出しませんでした。
「どっちもどっち」な夫婦でもあります。
仲が良い・悪い、両極端の2組の夫婦を日常的に見てきたことで、自分が見習うべきところと反面教師にすべきところを日々学ぶことができました。
本を読んだり、様々な経験者の話を聞くより、結局、この時に見てきた祖父母と両親の夫婦の姿が、自分の妻としてこうありたいというイメージを作る根幹になっています。
実際に結婚生活を送るようになってから特に、これらの学びは役立っています。
しっかりと話し合うこと
感情任せに相手に不満をぶつけないこと
腹が立った時ほど相手の立場を考えること
これらは私自身が肝に銘じていることで、両親や祖父母たち夫婦を見て、学んだことでもあります。
2-3 家族経営シフト
規則正しい生活
鴨川に越してきて一番の変化は、とても規則正しい生活になったことです。
祖父母たちがずっと続けてきた農家の生活リズムが自然と定着していきました。
6:00 起床
6:30 朝食
(仕事・学校へ)
12:00 昼食(父・祖父・母帰宅)
(午後の仕事へ)
15:30~16:00 子ども達帰宅
17:00過ぎ 祖父・母・父帰宅
18:00 夕食 ※日が長い夏は19:00頃
21:00 就寝
大体、こんなスケジュールで毎日を過ごしていました。
起床就寝と食事の時間はほぼ一定でした。
農家のシフトは、カレンダーではなく天気によって決まります。
例えば、週末休み、毎週火曜休み、平日含めて週休2日といった休日のパターンや、日勤・夜勤といった勤務形態は、会社によって、あるいは業種職種によって、様々かと思います。
これが、農家の場合は、天気によって決められることが多いのです。
ごく単純に、悪天候の日が休日です。雨、強風、暴風雨、台風などの日は外で仕事ができないからです。
加えて、日が昇っている時間が勤務時間です。つまり暗い夜の時間は仕事にならないからです。
(※現代では、大規模な専業農家、農作物によっては、照明器具を活用して深夜から明け方に収穫して出荷しているケースも見受けられますが、これは限られた種類で超繁忙期限定という限られたケースです。)
日の長い夏季だけ夕食の時刻が1時間遅くなるのは、家族総出で農作業をしていたり、会社の仕事も暗くなる時間が遅くなる分、残業が増えて帰宅が遅くなったりで、自然とこうなってしまったようです。
「日の出とともに起きて日の入りとともに寝る」
という話もあながちウソではなかったのかもしれません。
今のように電気もガスもない時代は、そうせざるを得なかったのでしょう。
我が家の家業は、農業と建設業(土木)。
どちらも外仕事なので、典型的な「農家シフト」でした。
実際、子どもの頃、泊まりがけで出かけることができたのは、年末年始だけ。
家族揃って出かけるのはいつも「雨の」週末でした。
子ども目線で見ていた両親や祖父母は、いつも早起きで、何かしら仕事をしていました。
①会社関係の仕事ー経営、現場の仕事、事務
②農業ー農地の管理、農作業
③家事ー家族7人分の食事、洗濯と洗濯物、部屋の掃除、庭や畑の管理など
これらの仕事を、大人たちで分担しあいながら、家業と家庭を運営していたのです。
①→祖父:経営、父:現場、母:事務
②→田:祖父と父、畑:祖母、農繁期は全員で
③→平日祖母・週末母 子ども達も手伝う
このように分担・協力して全ての仕事をこなしている状態でした。
週末、会社は休みでも、父と祖父は現場を見に行ったり、農地の管理や農作業をしていたし、
祖母と母は家族の食事を欠かさず作り、日頃の家事に加え、畑や庭の草むしりなど、人目に付くところの掃除などもよくやっていました。
私たちは、小学生までは、大人の生活に合わせて早寝早起きの生活をしていましたが、中学に入ってからは、「早寝」自体が難しくなっていった関係で、生活リズムが変わっていきます。
というのも、中学に入ると部活が始まり帰宅時間も遅くなりますし、必要な勉強時間も増え、見たいテレビ番組も増える・・・
さらにちょっとした反抗期という年齢的な事情も重なって、次第に大人たちとは違う生活リズムで暮らすようになっていきました。
寝る時間が遅くなってきた分、朝起きるのもしんどくなるし、部活のない週末は目覚ましをかけずにお昼近くまで寝ているなんて言うことも珍しくありませんでした。
そんな週末の朝に食卓に行くと、すでに食事は片づけられていて、大人たちはそれぞれ自分の仕事をしていました。
食べたいときに自分で用意して勝手に食べるということも自然と定着していました。
ただ、私たちがどんな時でも、どんな状況にいても、我が家の大人たちは変わらずに、平日も週末も関係なく、同じ時間に起きて、仕事をして、家族そろって食卓を囲むという毎日を送っていたのです。
3世代の食生活
食事に関するルールやメニューなどは家庭によっても様々かと思います。
我が家が、「それは珍しいね」とよく言われるのは、大人たちが3度の食事を自宅でとっていたことです。
祖父は毎日、父は遠い現場でない時は、お昼に一度帰宅して、昼食を取っていたのです。
平日は祖母が、週末は母が担当し、彼女たちは毎日3回分の食事の心配をしていなければなりませんでした。
3度の食事を自宅で取ることは、大人たちで決めたことではありますが、結局一番の理由は、祖父の性格や、祖父母の食べ物の趣向の問題があったのだと思います。
一等米の米農家で、毎日一等米を食べて数十年も暮らしている祖父母は、特に「米の味」にはとても厳しかったのです。
好物であったお寿司でさえもシャリの味や固さが気に入らないと食べてくれなかったほどでした。
会食の席や、いただいてきたお弁当なども同じで、ごはんにはほぼ手を付けませんでした。
祖父は、お米が美味しければ、さほどおかずはどんなものでも食べていましたが、祖母の好みだけは結局家族の誰ひとりとして理解できる者がいませんでした。
子ども目線でもこのことがよく理解できたのは、祖父母とともに家族みんなで外食に行った時でした。
色んなメニューがあって子供から大人まで食べるものがあるだろうということでファミレスに行きました。
めったに行かない外食で、おじいちゃんおばあちゃんとみんなで来れたということで、私もちょっとワクワクしていました。
両親も子供たちも好きなものを頼んで、祖父母も母と一緒に食べられそうなものを選んで、あとはみんなで楽しもう♪となるはずが、祖父母が食べ始めると、状況は一変します。
祖母は、食べられそうなものを選んだものの、顔は引きつり、首をかしげています。
「どうした?」と聞けば、口に合わなかった様子。しかめっ面で黙って食べています。
祖父は、「米がまずい」「この野菜なんでこんな細かく切るんだ?」など店員さんに横柄な態度を取ったりで、一緒にいる私たちは気が気でない。
この出来事をきっかけに、外食は、両親と子どもたちだけで気兼ねなく行くようになりました。
祖父母も自分たちを連れて行かないことに対して何も言いませんでしたし、祖父はお金を渡してくれたりもしました。
こればかりはどうにもならないことですが、今になっても、外食に行った時に、つい目に入ってしまうのが、
おじいちゃんおばあちゃんと孫一家で楽しそうに食事をしている光景です。
ああやって食事したかったなあと今でも思いますし、憧れでした。
こういった事情で、結局自分の家で準備する方が断然効率が良いということになったのです。
祖母は家族の食事を作れば、あとは自分の食べたいものを勝手に食べていたし、祖父も美味しいお米があれば何も言いませんでした。
家にいれば、おいしいごはん(お米)を食べることができるので、祖父母にとってはこれが一番だったようです。
朝起きれば、ご飯とみそ汁、パンも何種類かありました。目玉焼きと野菜のおかずがいつも食卓に並んでいました。コーヒーやお茶などの飲み物も食事に合わせて出せるようになっています。
その時の気分で食べたいものを食べて学校に行きました。
これだけ人がいると、ご飯派、パン派どちらもいます。
また、仕事柄、肉体労働が多いし、子どもたちにとっても、朝しっかり食べることが重要と考えた母と祖母は、これだけの食事を毎朝欠かさず食卓に並べていました。